「AIで動画作れるってさ、革命じゃん?」
話題のAI動画生成ツール Sora を触り始めて、最初に出た感想はこれでした。
アイディアさえあれば、カメラも、編集スキルも、素材も、全部いらない。頭の中の映像を言葉だけで具現化できる時代が来た。
ところが——同僚の一言でその革命の景色が変わります。
「いや、作りたい動画のアイディアとか無いんだよね」
Soraはアイディア勝負。発想が無いと楽しめない。
最初はそう思っていました。でも、実際に「Soraが合わない」と感じている人を観察していくうちに、むしろアイディアが浮かばない人ほど楽しめるAI動画の使い道があると気づいたのです。
Soraが楽しくない人の特徴を、身近で見た
Soraで遊び始めたのは僕だけじゃありません。職場の同僚も一緒でした。
ただし、楽しみ方の角度はまるで違った。
僕は「こんな動画がバズるかも」と仮説→プロンプト→生成→投稿のサイクルを回すタイプ。
一方で同僚は動画を作る目的も、テーマも、伝えたい誰かも、そもそも無い。
彼は悩みながら、完全に手が止まってしまっていました。
「作りたいものがない」
「誰かに伝えたいテーマもない」
「バズとか数字も別に興味ない」
これはSoraに向いてないというより、創作の入口がない状態。
でも、その横顔を見て思ったのです。
「素材が無いから創作できなかった時代」と違って、今は
記憶が素材!それだけあれば創作できる時代じゃん。
アイディアが浮かばない人ほど「記憶」で遊べる
同僚がふと漏らしたんです。
「小学校の頃の先生がさ、めちゃくちゃ面白い人だったんだよね。ああいう人また見たいわ」
そう。これです。
Soraは未来を作るだけのツールじゃない。過去を再現できるツールでもある。
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当時を知らない人に「こんな人いたんだよ」って披露する面白さ
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学生時代からの友達と「あの頃の先生」を再現して共有するノスタルジー
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記憶の中の面白い人をAIで具現化して、自分だけの内輪コンテンツを作る遊び方
これ、アイディアが浮かばない人の方が強い。
なぜなら「新しい映像」を考える必要がなくて、
既に面白かった人やシーンが頭の中にあるから。
AIはゼロから考える人のためだけじゃない。
過去を引っ張り出して楽しむ人のためのタイムマシンでもあるのです。
動画生成=クリエイターじゃなくていい。ただ「再現者」でいい
僕自身、動画編集スキルはガチで0。
素材を撮る機材も無い。After Effects?Premiere?使えません。触れません。専門用語?分かりません。
でも、今はそれでいい。
だってAIが作ってくれるんだから。
作る工程が楽しい。再現できるだけで楽しい。
完成した動画が面白いだけで楽しい。
Soraの面白さは、クリエイターになれることだけじゃない。
誰でも「再現者」になれることでもあったんです。
内輪で楽しむ。記憶を共有する。思い出を映像に変換する。
これはもう立派な「趣味×AI」の新ジャンル。
バズらなくても趣味として成立する。むしろ数字がない方が自由
AI動画生成でよくあるフックは「バズった」「〇万再生」「収益化」。
もちろんそれも面白い。でもそれを目的にすると途端に作れなくなる人もいる。
僕が同僚を見て分かったのはこれ。
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数字があると評価される→
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評価されると正解を探す→
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正解を探すと作れなくなる
だからこそ、趣味でいい。バズらなくていい。評価されなくていい。
Soraは「正解を探さない方が楽しいAIツール」だった。
まとめ
Soraに合わない人がいる。
でも、向いてないのはSoraがどうこうではなくて「斬新なアイディア勝負の創作」をしなくてはというマインドだった。不特定多数を喜ばせなくても良い。まずは作る事を楽しもう!
発想が浮かばない人ほど——
記憶を素材にして遊べる
過去の面白い人を再現して共有できる
評価軸がないからこそ自由に作れる
AI動画は「クリエイター育成ツール」じゃない。
記憶の翻訳機であり、思い出の具現化装置であり、趣味の増幅器だった。
免責事項
本記事の内容は、特定のツールや個人の能力を評価・断定するものではなく、AI動画生成を趣味として楽しむ視点から考察した体験談です。
あとがき
Soraで動画を作っていると、ふと自分の小学校の先生や昔の友達を思い出します。
AIと遊んでるのに、なぜか人間のことばかり考えてる。それがまた楽しい。
とりあえず並みで生きたい、でも趣味はちょっと尖らせたい。
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